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第91話 浴衣の彼女を見た瞬間、匂いのことを忘れた

last update تاريخ النشر: 2026-11-02 21:31:55

第91話 浴衣の彼女を見た瞬間、匂いのことを忘れた

 夏祭り当日、待ち合わせ場所へ現れた陽菜を見た瞬間、俺は珍しく匂いのことを忘れた。

 正確には、匂いを感じなかったわけではない。

 駅前はすでに祭りへ向かう人で混み始めていた。制汗剤、香水、日焼け止め、汗、駅近くの飲食店から流れてくる油の匂い。それらが普段より濃く重なっていたし、その中へ陽菜が近づいてくれば、いつものシャンプーとは少し違う匂いもした。

 でも、それを頭の中で分けるより先に、目が止まった。

「……」

「悠真?」

 陽菜が俺の前で立ち止まる。

 淡い色の浴衣だった。派手すぎない花柄で、普段は高い位置で結んでいる髪も今日は少し低めにまとめている。見慣れない髪飾りまで付いていて、足元もスニーカーではなく下駄だった。

「何その顔」

「いや」

「いや

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    第91話 浴衣の彼女を見た瞬間、匂いのことを忘れた 夏祭り当日、待ち合わせ場所へ現れた陽菜を見た瞬間、俺は珍しく匂いのことを忘れた。 正確には、匂いを感じなかったわけではない。 駅前はすでに祭りへ向かう人で混み始めていた。制汗剤、香水、日焼け止め、汗、駅近くの飲食店から流れてくる油の匂い。それらが普段より濃く重なっていたし、その中へ陽菜が近づいてくれば、いつものシャンプーとは少し違う匂いもした。 でも、それを頭の中で分けるより先に、目が止まった。「……」「悠真?」 陽菜が俺の前で立ち止まる。 淡い色の浴衣だった。派手すぎない花柄で、普段は高い位置で結んでいる髪も今日は少し低めにまとめている。見慣れない髪飾りまで付いていて、足元もスニーカーではなく下駄だった。「何その顔」「いや」「いや、じゃなくて。変?」「違う」「じゃあ何」 すぐに言えばいい。 そう思うのに、こういう時だけ変に考えてしまう。 似合ってる。 可愛い。 普段と違う。 どれが一番いいか考えているうちに、陽菜の眉が少しずつ寄ってきた。「悠真、今その沈黙かなり嫌なんだけど」「可愛い」 仕方なく、最初に出てきたものをそのまま言った。 陽菜が止まった。「……今、何て?」「可愛い」「もう一回」「何で」「聞こえたけど、確認したい」「可愛い」 今度は少しゆっくり言う。 陽菜は数秒こちらを見たあと、顔を逸らした。

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    第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない スタートの合図が鳴った瞬間、陽菜は俺の知っている夏目陽菜ではなくなった。 もちろん、別人になったわけではない。けれど、さっきまで俺の前で「好きって言って」と頼み、少し怖いと笑い、日焼け止めの匂いを気にしていた彼女と、今トラックを走っている選手が、同じ人間なのにまるで違って見えた。 陽菜は自分のレーンを走っている。 最初のカーブ。前半は飛ばしすぎないと以前聞いたことがある。それでも、観客席から見ている俺には速いとしか分からない。陸上を何年もやっている人間ならフォームやペース配分をもっと細かく見られるのだろうが、俺にはそこまでの知識はなかった。 だから、ただ目で追う。 それしかできない。「行け……」 声が勝手に出た。 聞こえるわけがない。周囲にはもっと大きな声で選手名を叫ぶ人もいるし、トラックそのものが遠い。俺の声など陽菜には届かないだろう。 それでも言う。「陽菜、行け」 前の選手との差がどうなっているのか、一瞬では分からない。レーンが違うので、見た目の位置だけでは順位も判断しづらい。 俺は息を止めそうになり、途中で自分が呼吸していないことに気づいた。 走っているのは俺ではない。 なのに苦しい。 意味が分からない。 ホームストレートの反対側へ入る頃、陽菜の腕の振りが少し大きくなった。 あれが予定通りなのか、それとも苦しくなっているのか分からない。 分からないことばかりだった。 脚、大丈夫か。 ふくらはぎ。 昨日張っていた場所。 一瞬そこへ考えが向かい、俺はすぐにやめた。 今、それを考えても何もできない。

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